LOGIN古びた門柱の向こうで、二階の窓が月明かりを鈍く返していた。
深夜十一時五十八分。
住宅地から外れた細道には、五人の笑い声だけが響いている。錆びた鎖には「私有地につき立入禁止」の札が下がり、湿った風が吹くたび鉄柵を叩いた。
鬼束美怜は、赤い缶の酒を片手に門柱へ背を預けた。
スマートフォンの画面では、配信開始を待つ人数が秒ごとに増えている。三千八百、四千二百、四千九百。胸の奥へ熱が集まり、唇が勝手に笑みの形になる。
「五千、行った」
「まだ始まってもいねえのに? 今夜で一万だな」
轟木燈夜が煙草をくわえ、黒いスプレー缶を振った。中の球がからから鳴り、眉のピアスがライトを弾く。
「一万は弱くない? 警察来たら三万行くっしょ」
茅森イオは内側カメラへ左右で色の違う瞳を見開いた。次の瞬間、白目を剥いて舌を垂らし、けらけら笑う。
「今のサムネにしよ。『開始二分で憑依されました』」
津守怜吾は三脚を調節していた。玄関を捉える固定カメラ、手持ち用、暗視用。そのどれにも赤い録画灯がともっている。
「機材に何か飛ばすなよ。弁償できるなら好きにして」
時刻が変わる十秒前、斑鳩ちとせが美怜の手首を取った。全員が巻いている赤と白の組紐を、ちとせは「チャンネルのお守り」と笑って渡していた。
「ほどけかけてる」
「こんなの要る? 霊よりダサい方が無理なんだけど」
「取ると今夜の主役になれるかもよ」
ちとせは陽気に言いながら、結び目を二度、きつく締め直した。白く染めた髪の一房が頬へ落ち、その奥で目だけが美怜の手首を見ていた。
「痛っ」
「朝まで我慢」
「横暴。はい、始まる!」
零時になった。
怜吾が無言で三本の指を折る。二、一、零。
美怜は酒の缶をイオへ押しつけ、カメラへ向かって中指を立てた。
「幽霊さん、見てるぅ?」
赤く塗った舌を見せ、目尻をつり上げる。
「今夜から始まりました、心霊も祟りもぜーんぶぶっ壊す〈KOWASU〉大型生配信! 記念すべき最初の獲物は、人形を作ってた一家がまとめて消えた家――」
背後へ腕を広げると、ライトが旧邸を照らした。焼け残った骨のような柱、黒ずんだ漆喰。破れた二階の障子が暗い目のように開き、表札には辛うじて《繭守》の二文字が残っていた。
「通称、《繭守邸》でーす」
イオが両手を叩き、燈夜は煙を吐いた。白い煙が門扉の隙間を抜けたところで、風もないのに薄く押し戻される。
流れ始めたコメントを、怜吾が小型モニターで確認していた。
『廃墟じゃなくて私有地だろ』
『普通に犯罪で草』 『通報した』 『繭守邸って検索しても出ない』 『二階の窓やば』「犯罪だってよ」
怜吾の平坦な声に、燈夜が鼻で笑う。
「入れないようにしてない方が悪いんだよ」
そう言って、錆びた鎖を持ち上げた。鎖は切断されていた。断面だけが錆びず、ライトを受けて白く光っている。
「誰か先に入ってんじゃん。俺らだけ叩くなよ」
燈夜は鎖を地面へ放り、門扉を蹴り開けた。蝶番から、獣が苦しむような長い軋みが上がる。
美怜は一瞬、二階へ目を向けた。
破れた障子の奥で何かが退いたように見えた。子どもの額ほどの、白い丸みだった。
けれど、イオが肩をぶつけて先へ走り、モニターには「早く入れ」という文字が続けざまに流れた。美怜は缶を奪い返してひと口飲む。ぬるい酒の甘さが舌にまとわりついた。
「怖くて帰ったと思った?」
画面へ笑いかけながら、門をくぐる。
庭は腰の高さまで雑草に覆われていた。露を含んだ葉が靴へ絡み、腐った果実と古い線香の匂いが鼻に残る。
玄関脇で、燈夜がスプレー缶の蓋を歯で外した。
「初陣の旗、立てとくか」
「でっかくお願い。切り抜いた時に読めるように」
イオがライトを向ける。燈夜は立入禁止の札を踏みつけ、玄関の引き戸へ黒い線を走らせた。
K。
O。
W。
噴きつけられた塗料の刺激臭が、湿った木の匂いを塗り潰していく。
Uを描き終える前に、引き戸の奥から、こつ、と音がした。
燈夜の手が止まる。
「何?」
イオが笑顔のまま首を傾けた。
「木ぃ腐ってんだろ」
こつ。
今度は少し高い位置だった。
硬い何かが戸の裏へ当たったように聞こえた。指の関節か、木の球。美怜は無意識に缶を握り直す。
『ノックされてる』
『中に人いるだろ』 『警察だったら笑う』 『いま二階の窓に子どもいなかった?』「子ども?」
美怜がコメントを読み上げると、ちとせが二階を仰いだ。黒髪が背中を滑り、白い一房だけが月光を拾う。
「いたら帰した方がいいね。ここの人形師、子どもの髪を人形に植えてたって話があるから」
「始まった、ちとせ先生の怪談教室」
「ちゃんと聞きなよ。この辺じゃ、繭守の人形は子どもの身代わりになるって言われてた。病気も怪我も、悪いものは人形が代わりに引き受ける。でも、引き受けたものが多くなると――」
ちとせは戸の黒い隙間へ顔を寄せた。
「人の方が、身代わりにされる」
数拍の沈黙が落ちた。
すぐにイオが「はい、交代しまーす」と美怜の背後へ回り、人形に操られたように両腕を揺らした。燈夜がその額を押し、怜吾はカメラを向けたまま告げる。
「今の顔使える。炎上したら切り抜き三本」
「五本でしょ。私かわいかったし」
笑い声で、戸の奥の物音は消えた。
燈夜が取っ手へ手をかける。鍵はかかっていなかった。引き戸は初めだけ抵抗し、その後は誰かに内側から引かれたように、するりと開いた。
冷たい空気が五人の足首を撫でた。
屋外より暗い玄関に、白いものが点々と浮かんでいる。
靴だった。
革靴、草履、長靴、赤い鼻緒の小さな下駄。埃をかぶった爪先が、すべて上がり框へ向いている。
「売れそうなのあるじゃん」
燈夜が革靴を蹴ると、乾いた蛾の死骸がこぼれた。
「きったな」
イオの笑い声が、天井の高い玄関で薄く重なる。一度の声に、遅れてもう一度、知らない息遣いが混ざったように聞こえた。
美怜は振り返った。
五人の背後には、開いた引き戸と、機材用ライトに照らされた庭がある。そのさらに向こう、門の脇に据えた固定カメラの赤い灯が見えた。
「どうしたの、美怜」
「別に。反響、キモいだけ」
「びびった?」
「それ、私に言ってる?」
声を尖らせると、胸の冷えが怒りに紛れた。怖がった顔だけは撮られたくない。弱みを見せれば、他人はそこへ何度でも指を差し込んでくる。
框へ足をかけた時、モニターを見ていた怜吾が眉を寄せた。
「待って」
全員が止まる。
「外カメ、何か拾ってる」
怜吾が画面を拡大した。固定カメラには、今しがた五人が通った庭と玄関が映っている。暗視の緑がかった映像の中央、門柱の前に、縦長の黒い影が立っていた。
背丈は小学生ほど。白く潰れた顔の下で、両手を腹の前に重ねている。
『五人じゃなくて六人いる』
『誰?』 『仕込み雑すぎ』 『さっき窓にいた子じゃん』 『おい、後ろ』美怜の呼吸が一度だけ浅くなった。
「燈夜、見てきて」
「なんで俺だよ。おまえが呼んだゲストだろ」
燈夜は強がるように笑い、玄関から首を出した。ライトが庭を横切る。門柱の前には、揺れる枯れ草しかない。
「誰もいねえじゃん」
ところがモニターの中では、人影がまだ立っていた。
燈夜が庭へ出た。画面の中では、人影の横を通り過ぎる。肩が触れそうなのに、燈夜は気づかない。
イオが美怜の腕へ爪を立てた。派手なネイルの硬さが皮膚へ食い込む。
「ちょっと、これ怜吾の仕込み?」
「俺ならもう少し綺麗に抜く。輪郭が甘い」
「じゃ、誰の?」
怜吾は答えず、映像の時間表示を確かめた。遅延は三秒。録画済みの映像を重ねた形跡はないらしく、長い指が珍しく忙しなく画面を払う。
美怜は腕を振り、イオの手を外した。
「六人目、出演料払えよ」
ことさら大きな声で言って、中指をモニターの影へ突きつける。
「ただで映ろうとか図々しいんだけど。入ってくれば? 一緒に壊してあげる」
燈夜が戻り、笑った。イオもそれに続く。怜吾は口元だけをわずかに緩め、カメラを回し続けた。
ちとせだけは笑わなかった。組紐の結び目へ親指を置き、モニターを見つめている。人影の足元から細い白線が延び、玄関の闇へ続いていた。
「ねえ。入るなら、一個だけ守って」
「何?」
「この家で、人形の数を数えないこと」
ちとせの声から、先ほどまでの戯けた調子が消えていた。
「一体、二体って口にしちゃ駄目。ここでは人と人形の区別が曖昧になるから、最後に自分まで数へ入るんだって」
「じゃ、全員壊せばゼロじゃん」
燈夜が吐き捨てるように言い、土足のまま框へ上がった。
「怖いなら、壊せ。そういうチャンネルだろ」
美怜も後に続いた。畳へ下ろした靴底から、湿り気がじわりと伝わる。酒の熱が残る身体に、屋敷の冷たさだけが服を通り抜けて貼りついた。
廊下の両側には、背の低い飾り棚が続いていた。
硝子戸の向こうに、顔が並んでいる。
市松人形、片目を閉じた西洋人形、歯を見せる御所人形。首のないもの、髪だけが箱からあふれたもの。硝子に五人のライトが映るたび、奥にもう一つ光があるように見えた。
「うわ、当たりじゃん」
イオが駆け寄り、棚を指でなぞった。厚い埃に一本の線が引かれる。
「これ全部、持って帰ったら売れるかな」
「勝手に売るな。まず動画にする」
燈夜が答える。
「その前に数えよ。ちとせが駄目って言うなら、やるしかなくない?」
「配信映えのために忠告したんじゃないよ」
「でも止めないじゃん」
美怜が振り返ると、ちとせはわずかに口を閉ざした。何かを聞こうとするように、廊下の奥へ顔を向けている。
その沈黙が気に入らず、美怜は最も近い棚へ指を差した。
「いーち」
硝子の中で、閉じていた西洋人形の片目が開いた。
そう見えただけだった。ライトの角度が変わり、瞼に張りついた影が退いただけ。美怜は自分へそう言い聞かせるより早く、笑った。
「にーい、さーん――」
「美怜」
ちとせが強く呼んだ。
同時に、二階から何かを引きずる音がした。
ずる。
間を置いて、ずる。
畳の上を、重い布袋か、手足の動かない人間が移動しているような音だった。五人の笑いが止まり、屋敷の静けさが急に輪郭を持つ。雨も降っていないのに、どこかで水滴が落ちている。古い木が鳴る。誰かの鼻から抜ける息が、異様に近い。
怜吾のカメラが二階へ続く階段を向く。
「いい音」
声は平静だったが、レンズを支える指に力が入り、関節が白くなっていた。
「上、行こうぜ」
燈夜が先頭へ立つ。強く踏むたび、階段から埃が舞った。美怜はその背を追い、イオ、怜吾、ちとせが続く。
狭い階段に五人分の足音が重なる。
一段。
二段。
三段。
途中から、音が一つ多かった。
誰かが足を置いたあと、ほんの半拍遅れて、裸足のような柔らかい音がついてくる。
美怜は数えまいとした。数えるなと言われたせいで、かえって耳が拾ってしまう。燈夜。自分。イオ。怜吾。ちとせ。その後ろ。
ぺたり。
手首の組紐が、脈に合わせて締まった。
「止まらないでよ」
イオが下から言う。先ほどより声が乾いていた。
「止まってないし」
美怜は足を上げた。
二階には、細い廊下を挟んで四つの和室が並んでいた。障子はすべて開いている。ライトを向けても部屋の奥まで届かず、畳の縁だけが青白く浮かんだ。
引きずる音は消えていた。
代わりに、どこかから幼い鼻歌が聞こえた。歌詞のない、同じ四音を繰り返す子守唄。美怜が息を止めると消え、吐くとまた聞こえる。
『歌ってるの誰』
『六人目映せ』 『右の部屋、顔ある』 『もう帰れ』 『やらせでも怖い』流れ続ける文字が、美怜には逃げろではなく、もっと見せろと命じているように思えた。
「ほら、幽霊さん」
喉の奥の乾きを酒で濡らし、最初の和室へ缶を掲げる。
「乾杯しよ。出てこないなら、こっちから全部開けるけど?」
返事はない。
燈夜が鼻で笑い、障子の桟を拳で叩いた。イオはその横でまた白目を剥き、怜吾は二人を画面へ収める。ちとせは最後尾に立ったまま、階段の暗がりを見下ろしていた。
配信開始から四十分が過ぎていた。
怜吾が予備電池への交換を告げ、美怜は廊下の中央で締めの挨拶を始めた。初日の数字としては十分だった。接続数は一万三千を越え、通報を宣言するコメントさえ勢いを増す燃料になっている。
「というわけで、《繭守邸》の一発目はここまで。まだ一階も離れも残ってるし、人形も山ほどあるんで、気になるやつは登録――」
す、と紙の擦れる音がした。
美怜の背後で、一番奥の障子が閉じた。
誰の手も届いていない。風もない。左右の桟が噛み合い、部屋の闇が白い紙の向こうへ隠れる。
五人とも動かなかった。
次の障子が閉じる。
す。
その隣も。
す。
一枚ずつ、廊下の奥から階段側へ。
イオの唇から笑みが消えた。燈夜は拳を握ったまま、踏み出せずにいる。怜吾のカメラだけが、滑るように閉じる白い面を追っていた。ちとせの指は手首の組紐を握り込み、赤と白の端が掌から垂れている。
最後の一枚が、美怜のすぐ横で動き始めた。
紙の向こうに、小さな影が立っていた。
丸い頭。細い肩。腹の前で重ねた両手。
門柱の前にいたものと同じ形だった。
美怜は声を出そうとした。配信を締めなければならない。笑って、仕込みだと罵って、中指を立てればいい。けれど舌が上顎へ貼りつき、息だけが細く漏れた。
影は障子へ顔を近づけた。
紙一枚を隔てた向こうで、口の形だけがゆっくり横へ広がる。
障子が、閉じた。
暗くなった画面のコメント欄に、同じ文章が幾つも流れた。
『まだ見てる?』
その文字を打ったと名乗る者は、一人もいなかった。
斑鳩ちとせが古い資料を抱えて編集部室へ現れたのは、爪の転送経路を追い始めてから二日後だった。大判の封筒が三つ、大学図書館の複写印が入った冊子が二冊、それに角が茶色く変色した古いファイル。いつもの彼女なら何か一言くらい軽口を挟むところだったが、その日は入口から机まで無言で歩き、津守怜吾のパソコンの横へ資料を積み上げた。「何それ」 鬼束美怜が訊くと、ちとせは一番上の冊子を開いた。表紙には地方民俗研究会の名と、三十年以上前の発行年が記されている。学校の怪談や祭礼についてまとめた同人誌に近い資料らしく、紙は黄ばみ、何度も複写された文字の輪郭は潰れていた。「似た話、あった」 茅森イオが椅子から身を乗り出した。「メール?」「もっと前」「どれくらい?」「少なくとも二十年以上前。でも、そこからさらに遡れる」 ちとせの指が目次を滑る。美怜はその仕草を見ながら、また胸の奥へ引っかかるものを感じた。楢守小学校でも、ちとせは怪異の規則を知りすぎていた。赤白の組紐、返事をしてはいけない時刻、記録を壊すことへの警戒。どれも本人は民俗学で似た話を知っているだけだと説明したが、偶然で済ませるには回数が多い。「どこで見つけたの」 怜吾が訊いた。「大学の民俗資料室と、古い地域誌の索引。あと一部は複写を取り寄せた」「いつから探してた」 ちとせの指が一瞬止まる。「チェーンメールが来てから」「二日でここまで?」「索引が残ってたから」 怜吾はそれ以上追及せず、開かれた頁へ目を落とした。美怜には、その沈黙が納得ではないと分かった。 頁の見出しには、《七爪様について》とある。「ななつめさま?」 イオが読んだ。「地域によって呼び方が違う」 ちとせは別の資料を並べる。《爪回し》《七人便り》《七枚送り》《七つ返し》。名称も土地も年代も一定しない。それでも本文へ書かれた内容には、嫌になるほど似た部分があった。「これ」 ちとせが鉛筆で薄く印をつけた箇所を示す。 古い活字。 七人へ伝えろ。 その下。 止めた者が七つ失う。 美怜の背筋が冷えた。「同じじゃん」 轟木燈夜が資料を引き寄せる。「これ、今のメール見て作ったやつじゃねえの?」「発行年見て」「古い本に後から追加したとか」「これは国会図書館にも所蔵記録がある資料。発行自体はチェーンメールが広まるより
七本の爪を失った男が救急搬送された病院から連絡が入ったのは、翌日の午後だった。家族を通じて〈KOWASU〉へ提供された検査資料には、両手の断面画像と、緊急処置で摘出された硬組織の写真が添付されていた。鬼束美怜は編集部室の机へ肘をつき、画面いっぱいに表示された透明な標本袋を見つめた。袋の中には黄白色の薄い板が一本ずつ分けて入れられ、形だけを見れば、どれも人間の爪にしか見えなかった。 津守怜吾は病院側から家族へ渡された説明書類を拡大し、記載された所見を一行ずつ追った。指先から皮膚の内部へ伸びていた硬質物は、骨片でも人工物でもなく、爪甲に極めて近い角化組織だった。七本すべてが、外側から差し込まれた形ではなく、本人の爪床周辺から連続するように存在していたにもかかわらず、通常の成長方向とは逆に第一関節側へ潜り込んでいる。しかも摘出された一本には、爪の先端らしい白い遊離縁まで残っていた。「外に伸びてた爪を、裏返して入れたみたい」 茅森イオがそう言い、すぐ自分の右手を握った。赤白の組紐はまだ手首へ巻かれており、その下の皮膚には薄い圧痕が残っている。鏡やカメラから顔が消えた時ほどではないにせよ、自分の爪へ視線を落とす回数は明らかに増えていた。「でも、本人の爪なら説明は一つできる」 轟木燈夜がソファから身を起こした。彼は画像を見ても怯えた様子を見せず、むしろ原因へ近づいたことを歓迎しているようだった。「変な病気か薬で、爪の生える向きが逆になった。それだけなら怪談じゃない」「本人のならな」 怜吾の声が低くなった。美怜が横顔を見ると、彼は別の資料を開いていた。病院側が家族の同意を得て追加のDNA検査へ回した試料について、暫定的な結果が記載されている。「何」「摘出した七本から、本人とは一致しない遺伝情報が出てる」 燈夜の笑みが消えた。爪そのものは角化した組織で、状態によって解析できる情報量に差があるため、病院側は爪の裏面に付着していた微量組織も含めて調べていた。その結果、七本の試料から得られたDNA型は、いずれも搬送された男性本人のものと一致しなかった。「じゃあ誰の」 美怜が訊いた。「分からない。照合対象がないから個人までは出ない」「七本とも同じ人?」「違う」 怜吾が画面を切り替えた。試料一から七まで、それぞれ別の識別番号が振られている。少なくとも確認
午前零時を過ぎてから、津守怜吾は眠らなかった。新品のスマートフォンへ勝手に送信された二通のチェーンメールと、自分の薬指へ現れた黒い縦線を前にしても、彼が最初にしたのは指を隠すことではなく、これまで集まった受信者全員の記録を一つの表へ並べ直すことだった。美怜が最初に送った七人、西園航平が送った七人、その先で転送した者たち。連絡が取れる範囲だけでも二十人を超え、痛みの始まった時刻、黒線が出た時刻、転送の有無、病院での所見を一件ずつ入力していく。 美怜はソファに座ったまま、母から届いた短い連絡を何度も見ていた。沙和はまだ誰にもメールを送っていない。親指の内部へ伸びた爪状組織は残っており、鎮痛薬を使っても痛みは完全には消えないという。それでも《七人には送りません》という一文だけは変わらなかった。「これ、時間で進んでる」 夜明け前、怜吾が初めて口を開いた。美怜が顔を上げると、三台のモニターに受信者の記録が時系列で並んでいる。黒い点が最初に現れた時刻から、二本目、三本目へ進んだ時刻まで、赤い線で結ばれていた。「どれくらい?」「完全一致じゃない。でも近い」 怜吾は西園航平の記録を拡大した。最初の痛みが始まった時刻、その約七時間後に二本目の爪へ黒い点が出現している。別の受信者もほぼ同じで、六時間五十分から七時間二十分の範囲に収まっていた。「七時間ごと?」 イオが右手首の組紐を押さえた。ほとんど眠れていないらしく、目の下には薄い影がある。それでも自分の指先を何度も確認する癖だけは止まらない。「今ある情報ではそう見える。一度始まると、約七時間で次の爪へ移る」「順番は?」 燈夜が訊く。怜吾は別の表を出した。「最初は人差し指。次が中指。三本目が薬指。少なくとも確認できた十二人は全員同じ」「右手?」「最初に症状が出る側は違う。右から始まる人も左から始まる人もいる。でも同じ手の人差し指、中指、薬指の順番は崩れてない」 美怜は自分の右手を開いた。亀裂の消えた人差し指は綺麗なままだった。自分が七人へ送ったことで、その順番から外れたのか、それとも別の誰かへ続きを渡しただけなのか、考えるほど指先が冷たくなる。 怜吾は表の横へ、確認できた症例だけを抽出した一覧を表示した。航平は最初の黒線から二本目まで六時間五十八分。別の二十二歳女性は七時間十一分、二十四歳男性は七時間
鬼束沙和の右手親指に異常が出た日の夜、津守怜吾は編集部室の机をほとんど占領するほど機材を広げていた。ノートパソコンが三台、通信を切った検証用端末が二台、外付け記憶媒体、回収したワイヤレススピーカー、それに楢守小学校で見つけた八台の隠しカメラ。照明を落とした室内では複数の画面だけが青白く光り、その中央へ例のチェーンメールが表示されている。 美怜は母親が病院から戻ったという連絡を受けてから、何度もスマートフォンを確認していた。沙和は検査後も七人への転送を拒んでいる。親指内部の爪状組織はまだ短いものの、根元から明確に皮膚の内側へ入り込んでおり、鎮痛処置を受けても完全には痛みが消えていなかった。「母さん、まだ送ってない」「その方が比較はできる」 怜吾が画面から目を離さず答える。「比較って言い方しないでって言ったじゃん」「状態を追わないと止め方も分からない」「分かってるけど」 美怜はそれ以上言わなかった。自分が送ったせいで母親の指へ異常が起きているという事実は、知らない受信者から報告を受けた時よりずっと重かった。 燈夜は少し離れたソファへ座り、ペットボトルの水を飲みながら怜吾の作業を眺めている。イオは右手首の赤白の組紐を指で弄り、ちとせだけは窓際で静かに外を見ていた。ここ数日、彼女は美怜たちがメールについて話すたびに口数が減る。「で、何か分かった?」 燈夜が訊いた。「メールそのものに仕掛けがある」 怜吾が答えた。 美怜が顔を上げる。「呪いじゃなくて?」「少なくとも一部は人間が作ってる」 その言葉に、燈夜がすぐ笑った。「ほらな」「まだ全部とは言ってない」「でも人間なんだろ」「監視してる部分は、かなり可能性が高い」 怜吾はメールへ添付されている卒業写真を別画面へ移した。顔を失った児童たちの中央に〈KOWASU〉の五人、その後ろへ白い少女、さらに撮影側へ薄い人影が立つ画像だった。「普通に開いただけだとただの画像に見える。でもデータを分解すると、画像として必要のない領域がある」「何それ」 イオが椅子を寄せる。「隠し文字?」「文字よりコードに近い」 怜吾は解析結果を拡大した。美怜には英数字の羅列にしか見えない。画像の色情報とは別の位置へ、不自然な規則で並んだデータが埋め込まれている。「画像の中に?」「見た目には出ない。普通
美怜が母親へチェーンメールを送っていたことが発覚したのは、四十九人という数字が画面に現れた直後だった。 怜吾が転送経路を少しでも追おうと、五人それぞれの送信履歴を確認し始めた時、美怜の端末だけに七人以外の宛先が一件残っていた。 受信者名には《母》と表示され、送信時刻は昨夜の配信終了から三十分ほどあとになっている。「これ何」 怜吾が端末を美怜へ向けた。責める声ではなかったが、その平坦さがかえって逃げ道をなくしていた。「母親」「見れば分かる。何で送った」「身内でも同じ症状出るのか試したかった」 美怜はそう答えたあと、自分でも少し言葉が軽すぎたと思った。イオが目を見開き、燈夜さえ一瞬笑うのを忘れたように美怜を見る。ちとせは何も言わなかったが、机の縁へ置いた指先が僅かに強張った。「視聴者七人とは別に送ったの?」 イオが訊いた。「うん。七人送ったら私の爪が戻ったでしょ。そのあと、もう一件送ったらどうなるのかなって」「何でお母さんなの」「他人だと経過追えないじゃん。母なら連絡つくし、爪とか歯の変化も分かるから」「歯科衛生士だから?」「そう」 美怜の母、鬼束沙和は四十六歳で、駅前の歯科医院に長く勤めている。爪や皮膚の専門家ではないが、医療従事者なら異常があれば病院へ行く判断も早く、身体の変化を説明する時にも話が通じやすい。 美怜はそこまで考えて送ったのだと説明したが、口にすればするほど、それは母を選んだ理由というより、実験対象として都合がよかった理由に聞こえた。「本人には何て言ったの」 怜吾が訊く。「普通に、今こういうメール検証してるって」「危険性は?」「黒い線が出るかもしれないって言った」「爪が内部へ伸びることは」 美怜は黙った。 昨夜、沙和へ送った時点では航平の断面画像はまだ届いていなかった。黒線が何を意味するかも分からず、美怜自身の爪が楽になったことの方が強く印象に残っていた。だから《これ来たら七人に送ってみて》と、簡単な文章をつけて転送しただけだった。「電話する」 イオが言った。「今?」「当たり前でしょ」「もう夜遅いし」「それ関係ある?」 イオの声が強くなった。美怜は反射的に言い返しかけたが、航平の指の中へ伸びた白い組織が頭に浮かび、スマートフォンを手に取った。 * 沙和は三回目の呼
西園航平が七人へ転送すると決めたのは、救急車を待っている間だった。編集部室の机中央に置かれたから、十九歳の青年の浅い呼吸と、遠くで誰かが玄関を開ける音が聞こえている。右手中指の内部には逆向きの爪状組織が伸び、薬指にも二本目の黒い線が現れたばかりだった。美怜は何も異常のなくなった自分の右手人差し指を見つめながら、爪の裏へ何かが潜っていく痛みを想像しないようにしていた。『七人に送れば、本当に止まるんですよね』 航平の問いに、美怜はすぐ答えられなかった。昨夜、自分は七人へチェーンメールを転送し、その直後に繭守邸から残っていた爪の亀裂と異物感が消えた。ただし一例しかなく、同じことが航平にも起きる保証はない。それでも、何も起きなかったと誤魔化すこともできなかった。「少なくとも私は軽くなった。亀裂も消えた」『じゃあ送ります』「待ってください」 怜吾がすぐに身を乗り出した。誰に送るのか、事情を説明するのかと確認するが、航平は友人へ送ると答えたきり、余裕のない呼吸を繰り返した。次の瞬間には中指と薬指の痛みが同時に強まったらしく、通話の向こうで呻き声が漏れた。『今それ説明してる余裕ないです。また中で伸びてる。三本目まで来たらどうすんの』「でも送った七人にも同じことが起きるかもしれない」 イオが言うと、航平はしばらく黙った。組紐を握るイオの指先も白い。美怜も言葉を挟めなかった。『じゃあ俺に、このまま耐えろって言うんですか』 その一言で、誰も強く止められなくなった。航平は希望してメールを受け取ったが、体内へ爪が生えることまで承知したわけではない。美怜自身、自分の異常が軽くなった安心の裏側で、七人へ何を渡したのかをようやく理解し始めていた。『送ります』 画面の向こうで操作音が続いた。一人目、二人目と航平自身が数え、その後も短い送信音が五回鳴る。七人目を送り終えると、通話には彼の荒い呼吸だけが残った。「痛みは?」『まだあります』 美怜の胸が沈みかけた。二十秒ほどして航平が急に息を止める。スピーカー越しの呼吸まで変わった。『待って。弱くなってる』「どのくらい?」『痛いのは痛い。でも、動いてない。さっきまで爪の下に金属を突っ込まれて、そのまま奥へ押されてる感じだったのに、それが止まった』 怜吾は転送完了からの時間を記録し、感覚だけで判断しないよう念を押