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第1話 KOWASU、始動

作者: なつめ
last update 公開日: 2026-07-27 18:47:55

 古びた門柱の向こうで、二階の窓が月明かりを鈍く返していた。

 深夜十一時五十八分。

 住宅地から外れた細道には、五人の笑い声だけが響いている。錆びた鎖には「私有地につき立入禁止」の札が下がり、湿った風が吹くたび鉄柵を叩いた。

 鬼束美怜は、赤い缶の酒を片手に門柱へ背を預けた。

 スマートフォンの画面では、配信開始を待つ人数が秒ごとに増えている。三千八百、四千二百、四千九百。胸の奥へ熱が集まり、唇が勝手に笑みの形になる。

「五千、行った」

「まだ始まってもいねえのに? 今夜で一万だな」

 轟木燈夜が煙草をくわえ、黒いスプレー缶を振った。中の球がからから鳴り、眉のピアスがライトを弾く。

「一万は弱くない? 警察来たら三万行くっしょ」

 茅森イオは内側カメラへ左右で色の違う瞳を見開いた。次の瞬間、白目を剥いて舌を垂らし、けらけら笑う。

「今のサムネにしよ。『開始二分で憑依されました』」

 津守怜吾は三脚を調節していた。玄関を捉える固定カメラ、手持ち用、暗視用。そのどれにも赤い録画灯がともっている。

「機材に何か飛ばすなよ。弁償できるなら好きにして」

 時刻が変わる十秒前、斑鳩ちとせが美怜の手首を取った。全員が巻いている赤と白の組紐を、ちとせは「チャンネルのお守り」と笑って渡していた。

「ほどけかけてる」

「こんなの要る? 霊よりダサい方が無理なんだけど」

「取ると今夜の主役になれるかもよ」

 ちとせは陽気に言いながら、結び目を二度、きつく締め直した。白く染めた髪の一房が頬へ落ち、その奥で目だけが美怜の手首を見ていた。

「痛っ」

「朝まで我慢」

「横暴。はい、始まる!」

 零時になった。

 怜吾が無言で三本の指を折る。二、一、零。

 美怜は酒の缶をイオへ押しつけ、カメラへ向かって中指を立てた。

「幽霊さん、見てるぅ?」

 赤く塗った舌を見せ、目尻をつり上げる。

「今夜から始まりました、心霊も祟りもぜーんぶぶっ壊す〈KOWASU〉大型生配信! 記念すべき最初の獲物は、人形を作ってた一家がまとめて消えた家――」

 背後へ腕を広げると、ライトが旧邸を照らした。焼け残った骨のような柱、黒ずんだ漆喰。破れた二階の障子が暗い目のように開き、表札には辛うじて《繭守》の二文字が残っていた。

「通称、《繭守邸》でーす」

 イオが両手を叩き、燈夜は煙を吐いた。白い煙が門扉の隙間を抜けたところで、風もないのに薄く押し戻される。

 流れ始めたコメントを、怜吾が小型モニターで確認していた。

『廃墟じゃなくて私有地だろ』

『普通に犯罪で草』

『通報した』

『繭守邸って検索しても出ない』

『二階の窓やば』

「犯罪だってよ」

 怜吾の平坦な声に、燈夜が鼻で笑う。

「入れないようにしてない方が悪いんだよ」

 そう言って、錆びた鎖を持ち上げた。鎖は切断されていた。断面だけが錆びず、ライトを受けて白く光っている。

「誰か先に入ってんじゃん。俺らだけ叩くなよ」

 燈夜は鎖を地面へ放り、門扉を蹴り開けた。蝶番から、獣が苦しむような長い軋みが上がる。

 美怜は一瞬、二階へ目を向けた。

 破れた障子の奥で何かが退いたように見えた。子どもの額ほどの、白い丸みだった。

 けれど、イオが肩をぶつけて先へ走り、モニターには「早く入れ」という文字が続けざまに流れた。美怜は缶を奪い返してひと口飲む。ぬるい酒の甘さが舌にまとわりついた。

「怖くて帰ったと思った?」

 画面へ笑いかけながら、門をくぐる。

 庭は腰の高さまで雑草に覆われていた。露を含んだ葉が靴へ絡み、腐った果実と古い線香の匂いが鼻に残る。

 玄関脇で、燈夜がスプレー缶の蓋を歯で外した。

「初陣の旗、立てとくか」

「でっかくお願い。切り抜いた時に読めるように」

 イオがライトを向ける。燈夜は立入禁止の札を踏みつけ、玄関の引き戸へ黒い線を走らせた。

 K。

 O。

 W。

 噴きつけられた塗料の刺激臭が、湿った木の匂いを塗り潰していく。

 Uを描き終える前に、引き戸の奥から、こつ、と音がした。

 燈夜の手が止まる。

「何?」

 イオが笑顔のまま首を傾けた。

「木ぃ腐ってんだろ」

 こつ。

 今度は少し高い位置だった。

 硬い何かが戸の裏へ当たったように聞こえた。指の関節か、木の球。美怜は無意識に缶を握り直す。

『ノックされてる』

『中に人いるだろ』

『警察だったら笑う』

『いま二階の窓に子どもいなかった?』

「子ども?」

 美怜がコメントを読み上げると、ちとせが二階を仰いだ。黒髪が背中を滑り、白い一房だけが月光を拾う。

「いたら帰した方がいいね。ここの人形師、子どもの髪を人形に植えてたって話があるから」

「始まった、ちとせ先生の怪談教室」

「ちゃんと聞きなよ。この辺じゃ、繭守の人形は子どもの身代わりになるって言われてた。病気も怪我も、悪いものは人形が代わりに引き受ける。でも、引き受けたものが多くなると――」

 ちとせは戸の黒い隙間へ顔を寄せた。

「人の方が、身代わりにされる」

 数拍の沈黙が落ちた。

 すぐにイオが「はい、交代しまーす」と美怜の背後へ回り、人形に操られたように両腕を揺らした。燈夜がその額を押し、怜吾はカメラを向けたまま告げる。

「今の顔使える。炎上したら切り抜き三本」

「五本でしょ。私かわいかったし」

 笑い声で、戸の奥の物音は消えた。

 燈夜が取っ手へ手をかける。鍵はかかっていなかった。引き戸は初めだけ抵抗し、その後は誰かに内側から引かれたように、するりと開いた。

 冷たい空気が五人の足首を撫でた。

 屋外より暗い玄関に、白いものが点々と浮かんでいる。

 靴だった。

 革靴、草履、長靴、赤い鼻緒の小さな下駄。埃をかぶった爪先が、すべて上がり框へ向いている。

「売れそうなのあるじゃん」

 燈夜が革靴を蹴ると、乾いた蛾の死骸がこぼれた。

「きったな」

 イオの笑い声が、天井の高い玄関で薄く重なる。一度の声に、遅れてもう一度、知らない息遣いが混ざったように聞こえた。

 美怜は振り返った。

 五人の背後には、開いた引き戸と、機材用ライトに照らされた庭がある。そのさらに向こう、門の脇に据えた固定カメラの赤い灯が見えた。

「どうしたの、美怜」

「別に。反響、キモいだけ」

「びびった?」

「それ、私に言ってる?」

 声を尖らせると、胸の冷えが怒りに紛れた。怖がった顔だけは撮られたくない。弱みを見せれば、他人はそこへ何度でも指を差し込んでくる。

 框へ足をかけた時、モニターを見ていた怜吾が眉を寄せた。

「待って」

 全員が止まる。

「外カメ、何か拾ってる」

 怜吾が画面を拡大した。固定カメラには、今しがた五人が通った庭と玄関が映っている。暗視の緑がかった映像の中央、門柱の前に、縦長の黒い影が立っていた。

 背丈は小学生ほど。白く潰れた顔の下で、両手を腹の前に重ねている。

『五人じゃなくて六人いる』

『誰?』

『仕込み雑すぎ』

『さっき窓にいた子じゃん』

『おい、後ろ』

 美怜の呼吸が一度だけ浅くなった。

「燈夜、見てきて」

「なんで俺だよ。おまえが呼んだゲストだろ」

 燈夜は強がるように笑い、玄関から首を出した。ライトが庭を横切る。門柱の前には、揺れる枯れ草しかない。

「誰もいねえじゃん」

 ところがモニターの中では、人影がまだ立っていた。

 燈夜が庭へ出た。画面の中では、人影の横を通り過ぎる。肩が触れそうなのに、燈夜は気づかない。

 イオが美怜の腕へ爪を立てた。派手なネイルの硬さが皮膚へ食い込む。

「ちょっと、これ怜吾の仕込み?」

「俺ならもう少し綺麗に抜く。輪郭が甘い」

「じゃ、誰の?」

 怜吾は答えず、映像の時間表示を確かめた。遅延は三秒。録画済みの映像を重ねた形跡はないらしく、長い指が珍しく忙しなく画面を払う。

 美怜は腕を振り、イオの手を外した。

「六人目、出演料払えよ」

 ことさら大きな声で言って、中指をモニターの影へ突きつける。

「ただで映ろうとか図々しいんだけど。入ってくれば? 一緒に壊してあげる」

 燈夜が戻り、笑った。イオもそれに続く。怜吾は口元だけをわずかに緩め、カメラを回し続けた。

 ちとせだけは笑わなかった。組紐の結び目へ親指を置き、モニターを見つめている。人影の足元から細い白線が延び、玄関の闇へ続いていた。

「ねえ。入るなら、一個だけ守って」

「何?」

「この家で、人形の数を数えないこと」

 ちとせの声から、先ほどまでの戯けた調子が消えていた。

「一体、二体って口にしちゃ駄目。ここでは人と人形の区別が曖昧になるから、最後に自分まで数へ入るんだって」

「じゃ、全員壊せばゼロじゃん」

 燈夜が吐き捨てるように言い、土足のまま框へ上がった。

「怖いなら、壊せ。そういうチャンネルだろ」

 美怜も後に続いた。畳へ下ろした靴底から、湿り気がじわりと伝わる。酒の熱が残る身体に、屋敷の冷たさだけが服を通り抜けて貼りついた。

 廊下の両側には、背の低い飾り棚が続いていた。

 硝子戸の向こうに、顔が並んでいる。

 市松人形、片目を閉じた西洋人形、歯を見せる御所人形。首のないもの、髪だけが箱からあふれたもの。硝子に五人のライトが映るたび、奥にもう一つ光があるように見えた。

「うわ、当たりじゃん」

 イオが駆け寄り、棚を指でなぞった。厚い埃に一本の線が引かれる。

「これ全部、持って帰ったら売れるかな」

「勝手に売るな。まず動画にする」

 燈夜が答える。

「その前に数えよ。ちとせが駄目って言うなら、やるしかなくない?」

「配信映えのために忠告したんじゃないよ」

「でも止めないじゃん」

 美怜が振り返ると、ちとせはわずかに口を閉ざした。何かを聞こうとするように、廊下の奥へ顔を向けている。

 その沈黙が気に入らず、美怜は最も近い棚へ指を差した。

「いーち」

 硝子の中で、閉じていた西洋人形の片目が開いた。

 そう見えただけだった。ライトの角度が変わり、瞼に張りついた影が退いただけ。美怜は自分へそう言い聞かせるより早く、笑った。

「にーい、さーん――」

「美怜」

 ちとせが強く呼んだ。

 同時に、二階から何かを引きずる音がした。

 ずる。

 間を置いて、ずる。

 畳の上を、重い布袋か、手足の動かない人間が移動しているような音だった。五人の笑いが止まり、屋敷の静けさが急に輪郭を持つ。雨も降っていないのに、どこかで水滴が落ちている。古い木が鳴る。誰かの鼻から抜ける息が、異様に近い。

 怜吾のカメラが二階へ続く階段を向く。

「いい音」

 声は平静だったが、レンズを支える指に力が入り、関節が白くなっていた。

「上、行こうぜ」

 燈夜が先頭へ立つ。強く踏むたび、階段から埃が舞った。美怜はその背を追い、イオ、怜吾、ちとせが続く。

 狭い階段に五人分の足音が重なる。

 一段。

 二段。

 三段。

 途中から、音が一つ多かった。

 誰かが足を置いたあと、ほんの半拍遅れて、裸足のような柔らかい音がついてくる。

 美怜は数えまいとした。数えるなと言われたせいで、かえって耳が拾ってしまう。燈夜。自分。イオ。怜吾。ちとせ。その後ろ。

 ぺたり。

 手首の組紐が、脈に合わせて締まった。

「止まらないでよ」

 イオが下から言う。先ほどより声が乾いていた。

「止まってないし」

 美怜は足を上げた。

 二階には、細い廊下を挟んで四つの和室が並んでいた。障子はすべて開いている。ライトを向けても部屋の奥まで届かず、畳の縁だけが青白く浮かんだ。

 引きずる音は消えていた。

 代わりに、どこかから幼い鼻歌が聞こえた。歌詞のない、同じ四音を繰り返す子守唄。美怜が息を止めると消え、吐くとまた聞こえる。

『歌ってるの誰』

『六人目映せ』

『右の部屋、顔ある』

『もう帰れ』

『やらせでも怖い』

 流れ続ける文字が、美怜には逃げろではなく、もっと見せろと命じているように思えた。

「ほら、幽霊さん」

 喉の奥の乾きを酒で濡らし、最初の和室へ缶を掲げる。

「乾杯しよ。出てこないなら、こっちから全部開けるけど?」

 返事はない。

 燈夜が鼻で笑い、障子の桟を拳で叩いた。イオはその横でまた白目を剥き、怜吾は二人を画面へ収める。ちとせは最後尾に立ったまま、階段の暗がりを見下ろしていた。

 配信開始から四十分が過ぎていた。

 怜吾が予備電池への交換を告げ、美怜は廊下の中央で締めの挨拶を始めた。初日の数字としては十分だった。接続数は一万三千を越え、通報を宣言するコメントさえ勢いを増す燃料になっている。

「というわけで、《繭守邸》の一発目はここまで。まだ一階も離れも残ってるし、人形も山ほどあるんで、気になるやつは登録――」

 す、と紙の擦れる音がした。

 美怜の背後で、一番奥の障子が閉じた。

 誰の手も届いていない。風もない。左右の桟が噛み合い、部屋の闇が白い紙の向こうへ隠れる。

 五人とも動かなかった。

 次の障子が閉じる。

 す。

 その隣も。

 す。

 一枚ずつ、廊下の奥から階段側へ。

 イオの唇から笑みが消えた。燈夜は拳を握ったまま、踏み出せずにいる。怜吾のカメラだけが、滑るように閉じる白い面を追っていた。ちとせの指は手首の組紐を握り込み、赤と白の端が掌から垂れている。

 最後の一枚が、美怜のすぐ横で動き始めた。

 紙の向こうに、小さな影が立っていた。

 丸い頭。細い肩。腹の前で重ねた両手。

 門柱の前にいたものと同じ形だった。

 美怜は声を出そうとした。配信を締めなければならない。笑って、仕込みだと罵って、中指を立てればいい。けれど舌が上顎へ貼りつき、息だけが細く漏れた。

 影は障子へ顔を近づけた。

 紙一枚を隔てた向こうで、口の形だけがゆっくり横へ広がる。

 障子が、閉じた。

 暗くなった画面のコメント欄に、同じ文章が幾つも流れた。

『まだ見てる?』

 その文字を打ったと名乗る者は、一人もいなかった。

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